この2日間は久々に集中して一冊の本を読みました。
『士魂 福沢諭吉の真実 著者 渡辺利夫先生』
福沢諭吉といえば、「欧化主義者、文明開化論者、啓蒙思想家」のイメージが大変強いものと想像できます。しかし、それは本来の福沢思想の全体像からは実に偏り、真実の福沢像ではありません。戦後の左翼リベラリズムによって「造作」された福沢像ではなく、福沢諭吉が書き残した文献を当たり、真実の福沢の思想像に迫っていくという内容になっています。
福沢諭吉は徹底したリアリストです。
明治11年刊行の「通俗国権論」では、現在の世界は「禽獣世界」であり、「群雄割拠」の状態にあり、その状態の中で日本が独立を維持するのには軍事力の強化が不可欠だと主張します。
特に「士魂」「士風」を擁した指導者のもとに、国家が国家として凝縮した力を発揮しなければ、この「禽獣世界」のなかで、日本は生き延びていくことはできない。そういう強い「ナショナリズム」が必要だと福沢諭吉は、訴えています。
さらに、通俗国権論では、「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず、幾冊の和親条約は一筺の弾薬に若かず。大砲弾薬は以て有る道理を主張するの備えに非ずして無き道理を造るの器械なり」と表現しています。
これは、万国公法も和親条約も、兵力を前にすれば何の役にも立たない、加えて兵力というものは、一国の道理を主張するための備えであるというよりは、逆に、もともとは存在しない道理をつくりだすものだ、とさえ言っています。
福沢諭吉は日本におけるリアリズムを学術的に発信した、第一人者だと強く認識しました。
現代の東アジアの安全保障を考える際に、福沢諭吉の思想を学ぶ必要は十分にあると言えるでしょう。
また、福沢諭吉は明治8年刊行の「文明論之概略」において、ナショナリズムが国民道徳である必要性を説いています。
「文明論之概略」とは日本の文明化をいかに進めるか徹底的に論じた、福沢思想のエネルギーを最も傾注して書かれたものであると著書の渡辺先生は述べられています。
文明論之概略において福沢は、国内では「人民同権」の考え方が広まりつつあるが、これはあくまで国内での人間関係のみであり、西洋諸国との国と国との関係では幕末以来、不平等条約に縛られ、いまだに真の独立国家の体をなしていないのではないか、という危機感をあらわにしています。
福沢は「自国の権義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳をおさめ、自国の名誉を輝かさんとして勉強する者を、報国の民と称し、その心を名付けて報国心と云う」と論じました。
自国の権利を伸長し、自国の民を富まし、自国民の知徳を修育し、自国の名誉を高めようと努める者を報国の民といい、それを報国心という、これなくして国家の独立はなく、報国心なくして日本の外交は不可能であり、日本人に欠くことのできない文明の条件であると主張しています。
あくまで福沢にとって文明とは手段であり、目的は日本の真の独立です。
「今の日本国人を文明に進むるはこの国の独立を保たがんためのみ。故に独立は目的なり、国民の文明はこの目的に達するの術なり。」
現在の日本が文明化を進めるのは日本の独立を守るためであり、それゆえ国の独立が目的であって、国民の文明は独立を手にするための術に他ならないのだ、という結論が「文明論之概略」です。
私の勝手な感想ですが、福沢諭吉の「文明」とは「国力」のことではなかったのかと考えました。「文明化」とは西洋列強との不平等条約を改正するための「目的」であり、それは国力を増強することで、大国間の関係を築くという目標であったと思います。
また、福沢は地政学にも精通していました。
脱亜論における清・朝鮮との決別は、真の意味での決別には至りませんが、アジアにおける西洋の植民地化に対して、腐敗しきった清・朝鮮に対する怒りは想像以上です。
それは朝鮮が力の空白になることで、日本の独立を脅かすことになる、だから「類焼」を阻止しなければならないと時事新報で述べています。
特に、日清戦争後の三国干渉によってロシアに山東半島を奪われ、朝鮮の事大主義によりロシアの影響力が強くなっていった当時の国際情勢を洞察した福沢は、「時事新報」において社説「日本と英国との同盟」というタイトルで、日英同盟の必要性を掲載しています。
この社説が掲載されたのが明治28年6月21日、日英同盟成立の6年以上前です。
「もしも等しく利害を感じて、実力以て相与に共同の敵に当たらんと云う者あらば、機敏なる倫敦の政府は之を歓迎して、其の力を借りることに躊躇せざるや疑いを容れず。」
まさに、福沢諭吉は国際政治における勢力均衡をしっかりと洞察できた戦略家であったといえるでしょう。
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